profile

こんにちは。パッショネクトへようこそ。ティアラ作家の「いとうさち」と申します。この度は、ホームページを訪れてくださり、ありがとうございます。

<保有資格>

・表参道サロンvivienneblancバレエティアラ認定講師
・一般社団法人 日本能力教育促進協会(JAFA)チャイルドコーチングマイスター
・独立行政法人情報処理推進機構(IPA)経済産業省による国家資格保有
  基本情報処理技術者
  応用情報処理技術者
  システムアーキテクト
・SunMicrosystems(現oracle)認定 Sun Certified Programmer for the Java Platform

<経歴>

・1981年生まれのアラフォー。
・三大メガバンクでシステムエンジニアとして15年勤務。
・6歳よりクラシックバレエを始め、23歳でアキレス腱断裂。
・2010年に結婚、2人の娘に恵まれる
・2018年にティアラ作家として活動開始

 

このように、私は15年間、銀行でシステムエンジニアをした後、一大決心をしてティアラ作家になった、少し変わった経歴の持ち主です。(このホームページも全部自分で制作していまーす)

そんなわけで、私がなぜ、今ここに立っているのか、エピソードを交えながら自分史紹介させていただきます!

episode1 バレエ三昧からの挫折

私の人生の軸となるバレエとの出会いについて、お話します。

バレエを始めるきっかけ

 私は6歳の頃、母に連れられてバレエ教室の門を叩いたあの日から、ずっとずっとバレエに魅せられてきました。何がそんなに好きだったのか?あの頃の気持ちを言葉にするのは難しいですが、漠然と、「私もバレエの先生になりたいな」「ずっとバレエをやっていたいな」そんな風に感じながら毎日を過ごしていたことを覚えています。

 私の母は、自分が子どもの頃に習ってみたかったもの、やってみたかったことは、全て私にやらせてくれました。バレエ、ピアノ、習字、水泳、コーラス、たくさんの習い事をしていましたが、私の中でバレエは別格でした。

 そのうち、どうしても通いたい中学校のために中学受験をすることになるのですが、そんな中でも、バレエだけは続けていました。毎年、舞台にも出ていたし、中1の春(=受験直後)にも舞台に出たくらいでしたから。

恩師の存在

 私がここまでバレエが大好きになったことのひとつに、憧れの恩師の存在があります。バレエ団の公演ではいつでも主役を踊り、ダンサーとしてテレビや雑誌にも出演されていたその先生は、とにかく厳しい先生でした。可憐に舞う妖精、華があり、夢中で先生の踊りを追いかけていました。

 厳しい先生でしたが、愛溢れる先生でした。「バレエは賢くないと出来ないからね、勉強はしっかりやりなさい」が口癖。バレエ以外のことも大切に生活することをいつも教えてくださっていました。

 先生にある日、私は聞きます。「先生、私もバレエで生きてみたい。出来ますか?」そんな私に、先生は手紙を書いてくださりました。そこには、日本のバレエ界の現状、経済的自立がとても難しい状況、そういった状況にも負けず踊り続ける強さ、そして家族の協力が絶対に必要であること、バレエ界の真実が包み隠さず書かれていたのでした。

そして、最後に、こう締めくくられていました。

バレエで生きていきたいなら、家族としっかり話し合いなさい。

バレエと家族

 バレエへの情熱が熱く燃え始めたのは、中学生になってすぐくらいの時です。私は、バレエ三昧の生活を始めます。学校の勉強はしっかりやる、バレエも頑張る。でも、なんとなく、この頃から、家族が心から応援してくれていないことは感じ始めていました。

 それはおそらく、湯水のように流れていくお金、好きだけどそんなに上手でもない私のバレエ、そしてプロになったからと言って経済的に自立できるわけではない。そんな状況が、家族の「後ろ向き」を産んだんだと思います。

 私はバレエを続けたいがあまり、家では自分をオープンにせず、本音も見せず、いわゆる「何を考えているのか分からない子」になっていきます。自分でもそういう自分への苦しさは感じていました。けれど、大きな反抗はできない、何故なら、バレエを辞めさせられては困るから。私は、どんどん自分の殻に閉じこもるようになります。

バレエへの情熱の糸が・・・切れた

 高校生になっても、そのような生活は続きました。

そんな時です。私のバレエへの情熱が消えたのは。ちょうどその頃、バレエ教室のクラスが変わり、人間関係が少し複雑になった時期でした。今まで私が在籍していたクラスは、とにかく仲が良い、友人に会うのが楽しみなクラスでした。それが変わり、ただ純粋にバレエ、踊りを楽しんでいるだけではうまくいかないことが色々と起き始めました。

 家族の中で孤立している(と思い込んでいた)、バレエ教室でもなんとなくうまくいかない。自分のバレエ技術のレベルでは到底バレリーナにはなれないという事実。そういうものがすべてひっくるまって、 あんなに燃やしていたバレエへの情熱がフツと消えてしまったのです。

 誰にも何も相談せず、私は「バレエ辞めるね」ただそれだけ家族に伝え、すっぱりバレエの道を閉ざしたのでした。(後から聞いた話では、家族、特に母親はかなり驚き、そしてとても残念に思っていたそうです。親子とはなんとも難しいですね。)

 今から考えると、「甘い若造だな~」と思えるのですが、当時はいっぱいいっぱいでした。このような経験から、私は、「家族の応援」は子どもの人生に影響するし、それであれば正しい応援で、しっかりとマインド面を支えたい、と考えるようになっていったのです。

 

episode2 バレエの再開と大怪我

就職活動を経て・・・上京

若かりし頃のわたし(これは京都)

 高校生の頃、「もうバレエの道には歩まない」と一人で決意し、大学進学を決めます。師の「バレエは賢くないと出来ないから、勉強もしっかりするすること」という言葉。塾や予備校には行っていませんでしたが、学校の成績だけは落とさずに頑張っていたことが功を奏し・・・運よく推薦で大学に入学。

 その後も超真面目に大学に通い(バイトやコンパに明け暮れて単位を落とす!ような学生ではありませんでした。。。(笑))氷河期の就職を潜り抜けて、晴れて社会人となります。このときは、もう、バレエのバの字も思い出せないくらい・・恋も仕事にも遊も、わりと血気盛んに丸の内OLを謳歌していたと思います。

 とにかく仕事が面白くて楽しくて、ひたすら仕事にまい進していたある日、、、急に体が動かなくなる事態が訪れます。体中に蕁麻疹が出て、目はうっ血し、お岩さんみたいな顔になりました。(写真を撮っておけばよかった!)生理も止まり、思考も止まりました。鬱でした。

東京でのバレエ再開で驚いたこと

 鬱に対するセラピーの役割で、大好きなバレエを再開。そこで私は、バレエの世界ってこんなに多様で、色んな人がいるんだ!ということを知ります。

 たくさんのオープンクラス、大人も子どももプロバレリーナも。たくさんの出会い、たくさんの考え。私が昔うまくいかなかった「バレエの苦しさ」が無い、なんだか自由な世界がありました。

 少しずつ体調が回復する中で、 自分にやどるバレエ愛を再認識した私は、 再びバレエにのめりこみます。 数年のブランクを埋めるがごとく、むさぼるようにレッスンを受けました。

バレエ再開矢先の怪我

 そして、やっぱり私は、「どんな形でもいいからバレエを踊り続けたい!プロじゃなくても舞台に立っていたい」そんな風に思えるようになった矢先。グランパドシャを飛んだ瞬間に、スタジオに響き渡るものすごい音がしました。

「パーーーーーーーーン」

 噂に聞いていた音が、自分の体から鳴り響いた感覚は、今でも覚えています。音って波なんだね、と感じました(笑)  
歩けない、足首がブラブラ、素人の私でも、嗚呼きっとこれは大けがに違いない。救急車の中で思っていたことは「決まっている舞台、どうしようかな?」でした。

 診断名は、アキレス腱完全断裂。今度は自分の意志とは異なるところで、踊り続ける道を閉ざされたのでした。

 

episode3 バレエティアラとの出会い

諦めた夢がその後の人生に与える影響

 母子関係って、本当に不思議だなと思います。きっとどの母子も同じなんでしょうけれど、自身が子どもの頃にやりたかっとこと、成し遂げられなかったこと、それで辛い思いをしたからこそ、子どもには不自由なく与えてあげたい!と思うんですよね。

 私の場合は、特に、自分が成し遂げられなかった夢への想いが強すぎて、もしお腹の子が女の子だったら、絶対にバレエをさせよう!と心に決めていました。子どもの人生を通じて、私が楽しんじゃえというノリです。今から考えたら本当に毒親だと思いますが、妊娠当時は、本気でそんなことを考えていました。

 念願の女の子を授かった私は、とにかくバレエが出来る年齢になるまで待って待って待って。念願のバレエママになりました(笑)
 気付けば、子どものバレエに必死になっている自分がいました。 練習についていき、帰り道には出来ていなかったテクニックの説教。 自宅ではストレッチをみっちり。

 私は、子どもの人生の中を生きている、そんな母親になっていたのです。

ティアラとの出会いは偶然

 そんな時に偶然に、娘のバレエ教室関係者が、バレエティアラ作家をなさっていることを知りました。バレエティアラ作家という職業を初めて知ったのは、このときです。
 諦めていたバレエの世界。子どもを通してしか関われないと思っていたバレエの世界。 その世界の門が、こちらに向かって開いている、そう感じました。

踏み出さない理由はなかったんです。

 ティアラの世界に足を踏み入れて、知ったことがあります。それは、東京でバレエを再開したときよりも、もっと大きな衝撃です!

 バレエを踊れなくたって、バレエに携わって生きることはできるんだ!!!

 私を変えた、私と子どもの関係を変えた、 それがバレエティアラです。 いくつになっても、自分の生き方を決めさえすれば、 道は開けるんだと思えるようになりました。そのとき、私は、もう一度バレエを始めることを決意します。踊れるわけではない、でも携わって生きていたい。

 たくさんの寄り道をしたけれど、私の願いは昔から今まで、たったひとつです。あの時、バレエの先生に無垢な心で質問した私が蘇りました。

「私もバレエで生きてみたい。出来ますか?」

夢を諦めた経験は、人生を輝かせることを知った

 一番変わったのは、子どもとの関わり方です。 子は子の人生を生きる。親は親の人生を生きる。 素直に純粋に子どもの夢を、一人の人間として応援できる。 そういうシンプルな生き方が、子育てに対する心も軽く、そして強くしてくれました。
 私の生き方を一番喜んだのは、他でもない、娘でした。ティアラを制作するたびに、ティアラを頭に乗せ、鏡の前でいつまでも踊っているのです。
娘と、こんな風にバレエを一緒に楽しめるなんて!娘のバレエに躍起になっていたならきっと味わえなかった幸せでした。
 全国のバレエママも、こんな風にお子さまとバレエを楽しめたなら、バレエへの理解も深まって、きっと素敵なバレエ界になる、そう確信しました。

今、私は、こう思っています。

 夢を諦めた経験は、きっと人生の糧になる。 長く蓄積した後悔の念は、一歩を踏み出すパワーになる。
 あのときの人生の挫折は、必ず次の夢の一歩につながるんだと確信したから、 迷わず、自分の人生を生きれるようになりました。 次は、あなたにこのバトンを受け取って欲しい! 

 私はそんな想いで、このサロンをオープンするに至ったのです。